冬の円覚寺を散策

寺社仏閣

円覚寺に行ってきました。
開基は鎌倉幕府第8代執権 北条時宗、開山は無学祖元。
創建は弘安5年(1282年)。

円覚寺山門
山門

曇り空で冷たい北風が吹き下ろす日ということもあり、参拝客はまばらでした。
その分ゆったりと境内を参詣することができました。

白梅、紅梅、蝋梅(ロウバイ)、木瓜(ボケ)、ミツマタ、椿、水仙が花を咲かせていました。
冬から春に着実に季節がすすんでいます。

山門と方丈庭園(ロウバイが咲いています)
ロウバイ、水仙、ミツマタ

北条時宗の在職期間は1268年から1284年の16年間でした。
その在職中に2度に渡る元軍の襲来がありました。
いわゆる元寇と呼ばれるもので、文永の役(文永11年:1274年)と弘安の役(弘安4年:1281年)です。

激戦の末、2度とも元軍をかろうじて退けました。

そして、この戦いで両軍ともおびただしい戦死者がでました。

円覚寺は、元寇の戦いで戦死した両軍の戦没者を追悼するために創建したといわれています。

時宗は、父時頼が創建した建長寺の初代住職の蘭渓道隆に師事して禅の修行をしていました。
円覚寺創建のときには、すでに蘭渓道隆は亡くなっていたので、中国の宋から無学祖元を招聘して開祖としました。

円覚寺は、臨済宗円覚寺派の大本山であり、鎌倉五山第二位になっています。
臨済宗とは、すなわち禅宗ですね。

鎌倉武士は禅宗を厚く信仰していたようです。
一方、京の公家は浄土の教えを信仰していました。
「阿弥陀仏への絶対的な救いを求める浄土門の他力の教えに対し、自力で往生を悟ろうとする禅宗の教えは自力で問題解決を図る武士の時代の風潮とも合致していた」(Wikipedia)と言われています。

文永・弘安の役という国家存亡の危機にあたって指揮をとってきた時宗は、激務と心労のためでしょうか、わずか34歳で亡くなりました。
弘安の役の3年後、円覚寺創建の2年後のことでした。

境内に法堂(はっとう)跡があります。
法堂は焼失した後、再建されませんでした。
その由緒書きに、
「円覚寺法堂は北条高時公の時代、北条貞時公十三回忌に当たる元享三年(一三二三)に建立。「直指堂」と命名された。円覚寺が創建されてから約四十年後のことであった。」とあります。

伽藍の完成が、円覚寺創建から40年後とは、意外でした。
おそらく、元寇の再襲来に備えて防衛力の強化に人的・財的に多額の出費があり、さらに、文永・弘安の役で戦った御家人に対する論功行賞にも多額の出費があったため、円覚寺の伽藍を整える財源がなかったのでしょう。
一方、東国が地盤であった鎌倉幕府は、元寇を契機に西国にも影響力を強めるようになりました。
名実ともに、全国規模で影響力を強めていったわけです。
元寇の脅威が薄れていくなかで、着実に力をつけていき、創建後40年が経ち、ようやく円覚寺の伽藍の整備ができるまでに、政治的に安定し、財源に余裕が生まれたものと思われます。

しかし、絶頂期は長くは続きませんでした。

円覚寺法堂建立の10年後の1333年に、新田軍によって鎌倉へ攻め込まれ、高時を含むは北条一族や家臣たちは、東勝寺へ退却し、そこで約870人全員が自刃しました。
鎌倉幕府は、ここに終焉したのです。

激動の時代に身を置いた北条時宗と鎌倉幕府の終焉に思いを馳せながら、円覚寺を散策しました。

次は、鎌倉五山第一位の建長寺にいってみようと思います。
1回の散策で訪れる寺社仏閣を極力少なくし、できれば1カ所にして、じっくりと、そしてのんびりと鎌倉散策をしていこうと思います。

追記 ~寺社仏閣シリーズ開始にあたり~
アイキャッチ画像は2022年11月に京都・奈良へ一人旅に行ったときに、猿沢の池から興福寺を撮影したものです。
ここからの光景が、たまらなく好きです。
奈良は何度も訪れていますが、ここへは必ず寄って、ベンチに腰掛けて、時間を忘れて、ただ眺めています。
しかし、鎌倉と違って、ちょっと行ってくるかと、簡単に行ける場所ではありません。
京都・奈良への思いは募りますが、近場の鎌倉周辺にも興味深いものがあるはずです。
何度も足を運んでいる鎌倉ですが、近場の利点を生かして、じっくりと向き合って、新しい発見をしていきたいと思います。

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